ラッセルが殺し屋に見えた
お洒落なスクーターと神父
1987年ヴァチカンでエクソシストチーフとして教皇に仕えるガブリエーレ・アモルト神父。イタリアの村をスクーターに跨って目的地へ向かいます。そして地元司祭と共に悪魔に憑りつかれた男を救い出すのですが、”無許可の悪魔祓い”を行ったとして枢軸卿らに注意を受けました。
ガブリエーレは”今回の件は悪魔祓いに中らない”とし、「私はローマ教皇に仕えている。文句があるなら直接教皇に言え。」と言い放ち去ります。そしてその教皇からガブリエーレはとある修道院を調査するよう依頼を受けます。以前から問題のある場所で、「嫌な予感がする。」と伝えられ、ガブリエーレは再びスクーターに跨りスペインのサン・セバスチャン修道院に向かいました。果たしてどんな悪魔が待ち受けているのか・・・
実在した神父の教え
実際に数万回に及ぶ悪魔祓いをしたというエクソシスト、アモルト神父の著書”エクソシストは語る”を基にした作品。お茶目で強面のラッセルのせいで、序盤登場の悪魔祓いシーンでは”逃げて(悪魔さん)!!”と心中叫びました。しかし暴力的なエクソシストが悪魔を片っ端から・・・という作品ではなく、”悪魔”という存在の在り方をきっちり描いています。
対話によって”悪魔憑き”なのか”精神疾患”なのかを判断し、そして疾患ならば医療に繋げるというリアルな話。そして憑かれていた場合に一番恐れるべきことは、”悪魔に呑まれない”ことでした。しかしこの対策において”人間である”という事は、どうしようもなく不利な話でした。
ヴァチカンのエクソシスト
悔やむべき過去がある
神父とか教師とか医者とか関係なく人間である。それは悪魔からすれば”必ず取り入る隙がある”という根拠です。善悪ではなく後悔の念が有るか無いかで人は揺れてしまいます。そこが悪魔に呑まれるきっかけになり得ます。それは”教会という組織自体”も同様なのでした・・・
本作は神父を悪魔に立ち向かうヒーローとしながらも、普通の人として扱います。だから取り返しのつかない過ちがあり、そして隠蔽してしまう教会(人間)の弱さを描いています。悪魔とは人の鏡であり、これは愚かさの暴露。神も悪魔も生み出すのは人間次第ということです。
悪魔に憑りつかれると四つん這いで壁登のは定期なんですね。あの動き、ちょっと苦手なんですよねえ・・・
コメント も、文句以外で・・・